文化学院閉校

大正自由教育の流れを汲む文化学院が、3月31日に閉校したことを知りました。1921年に各種学校として開校してから97年で幕を閉じることになりました。

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『朝日新聞』2018年3月31日夕刊

文化学院は、和歌山県の大山林地主で建築家の西村伊作が、長女アヤの個性が画一的教育により押しつぶされることを嫌い、芸術や文学による人間教育をほどこしたいと考え、与謝野晶子や石井柏亭と相談し、1921年、お茶の水駿河台の地に開校、国の学校令によらない自由な校風が特徴でした。

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1935年頃の学院(『愛と反逆-文化学院の五十年-』1971年、より)

講師陣は与謝野寛・晶子夫妻、石井柏亭をはじめ山田耕筰、河崎なつ、有島生馬、高浜虚子、昭和になってからは佐藤春夫、菊地寛、三木清、清水幾多郎、小林秀雄らが教壇に立ちました。
この学院からは後に各界で活躍する個性的で有能な人々を世におくり出しました。俳優の入江たか子、高峯秀子、夏川静江、長岡輝子、木村功、バレリーナの貝谷八重子、評論家の青地晨、児童文学者の上笙一郎らは、この学院の卒業生でした。

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1936年頃、左より河崎なつ、与謝野晶子、戸川エマ、石田アヤ(同前)
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1940年夏の西村伊作(同前)

校舎は関東大震災で焼失したり、1940年には西村伊作が紀元2600年祭を批判する「数字と偶像」(『月刊文化学院』第10号)を書いたために当局に監視され、43年に逮捕され、学院は閉鎖されるなど、苦難の道を歩みました。
戦後、学園は再開され、1976年に専修学校制度が発足してからは、専門学校となりましたが、就職が良いことが社会的評価となっている一般的な専門学校とは異なり、人間教育が中心で、必ずしも就職を第一に考える学校ではなかったために、高校教員からの認知度は低く、経営的には厳しいように思っていました。

私自身、大正デモクラシー研究をしており、1993年に立教大学の非常勤講師をしていたときには「大正デモクラシー期の社会と文化」をテーマに講義をしたので、文化学院について1時間とって授業をしたことがありました。たまたま多摩高進の役員をやっていたときに学院職員が来校されたことがあり、それが機縁で、立川地区の進路指導協議会で文化学院を見学したこともあります。

校舎が老朽化し、2008年に新校舎が完成し、これを機にあたらしい時代で活躍できる個性を育てようと学科編成・カリキュラムを一新しましたが、外からこの状況を見ていた私は、大正デモクラシー以来の文化学院の伝統を捨て去り、普通の専門学校になったように思っていました。このときが実質上「文化学院」の閉校だったのかも知れません。
創立100年を目前に閉校となり、また1つ個性的な専門学校が消滅したことが残念でなりません。

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