平井澄子生誕100年記念演奏会に行く

9月1日、平井澄子生誕100年記念演奏会「車人形 佐倉義民伝」の公演が北千住駅前のシアター1010であり、観に行ってきました。

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平井澄子は、1913(大正2)年、父・日本画家の平井呉風、母・山田流箏曲家の平井美奈勢の長女として生まれました。
2002(平成14)年、89歳の生涯を閉じるまで、日本音楽の世界に大きな足跡を残しました。
山田流箏曲の名手であった母から箏曲を学び、子どもの頃から地唄、長唄、清元を習い、15歳で宮城道雄に師事、1946(昭和21)年、東京音楽学校の邦楽科を卒業しています。47年には宝生流初の女性能楽師になっています。在学中に新内を富士松加賀寿々に師事、卒業後、富本を名見崎たかに師事するなど、日本音楽の多種目を究めていきました。55年頃には駒しのぶの名で、俗謡、端唄を歌い、ラジオにも出演して人気を博したこともあります。また、雅楽の芝祐靖に催馬楽や古代歌謡を、竹本金太郎に木遣りを、インド大使館書記官夫人パッシ・ロイにインドの歌曲を習ったりと、意欲は尽きず、それらすべてを土台に独自の日本音楽を創造していきました。
1957年、「切支丹道成寺」の作曲で文化庁芸術祭賞を受賞、翌年には宮城道雄賞を受賞しています。
日本音楽の多種目を究めていることは、日本の伝統音楽の中ではかつて存在したことのない稀有な事例であり、加えて、演奏家としてのみならず、声楽曲や演劇関係の作品など多方面にわたって活発な作曲活動を行い、演奏と作曲の両面で、数々の賞を受賞していることにおいても、日本の音楽界あって、貴重な存在でした。

1962年頃からは労音運動に関わるようになり、日本音楽の発展に新しい道を切り拓きました。65年に坂井敏子、大塩寿美子と3人で民族楽団「ふきの会」を結成して、あらたな環境の中で、これまでに接したことのない勤労者という聴衆と、タカクラ・テルによるあらたな題材を得て、全国各地での公演による普及活動と、各地の民族音楽教室開設の指導援助を行う教育活動を精力的に行っていきました。
タカクラの作詞による「新曲まんざい」「新曲よさこい」「おんど山城・国いっき」などに曲をつけ、車人形との出会いの中から、タカクラが車人形のために書き上げた台本「新曲佐倉義民伝」「新曲さんしょう太夫」「唐人おきち」に作曲をし、勤労者に感動をもって迎えられました(小島美子「日本の新しい声の音楽を求めて」『平井澄子の知恵袋』邦楽ジャーナル別冊、2000年、降矢美弥子「日本伝統音楽の近代化・現代化に関わる一考察-平井澄子の実践から-(1)~(4)」『福島大学教育学部論集』第48号~第53号、1990年~1993年、などによる)。

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平井澄子

その平井澄子の生誕100年を記念して演奏会が開かれたものです。

私が民族楽団「ふきの会」の演奏会に初めて行ったのは、立川市民会館で開かれた「新曲さんしょう太夫」の公演で、1982年2月のことです。タカクラ・テルさんに招待券をいただいたのがきっかけで、その後何回か、鑑賞する機会を得ました。
今回の演奏会で、「平井澄子「小品集」より」の演目で箏を弾かれた坂井敏子さんを拝見するのは20数年ぶりになりますが、高齢にもかかわらず、かくしゃくとして演奏されている姿はみごとでした。

今回上演された「新曲佐倉義民伝-甚兵衛わたし場の段-」は、タカクラ・テルが1965年に創作し、平井澄子が作曲したものです。

あらすじは、次のようなものです。
下総国印旛郡公津村の名主・木内宗吾が、1664(正保元)年の冬、役人の目をくぐって村に通じる舟の渡し場までやってきます。佐倉藩では一揆を厳しく取り締まるため、一揆の仲間が渡しを渡らないように、夜は役人が舟のくさりに錠をかけていきます。佐倉藩主・堀田上野守の圧政を将軍家光に直訴をする前に、妻子に累が及ばないように妻との離縁の去り状をしたため、渡し守の甚兵衛に託そうとします。
すると、甚兵衛は、宗吾の差し出した去り状を押し戻し、「いやいや、それは、あなたのお手で、じきじき、奥さまにお渡しなされたがよろしゅうござりましょう」と。「一生のお別れでござりまする。奥さまにも、お子さまにも、おあいなされて、よそながら名ごりを惜しんでおいでなされませ。そのあいだ、甚兵衛は、舟で待っておりまして、すぐ、また、こちらへお運びいたしましょう。さあ、お支度なさりませ」といって、舟のくさりを斧で切り落とし舟を出します。
目明かしがそれを見つけますが、甚兵衛は、目明かしを打ち殺し、二人の舟は、雪の降る、闇の中、沼のかなたに消えていきます。

タカクラは、説教じょうるりから「佐倉義民伝」を書くにあたり、2つの改訂を加えたことを解説に書いています。
その1つは、説教じょうるりの元の題は「朝倉草紙楓短冊」ですが、江戸時代は、佐倉の農民一揆をそのまま題材にできないので、筋も関西の出来事にし、主人公の名前も「朝倉当吾」、一揆の相手も、領主ではなく悪代官になっていました。そこで、題も「佐倉義民伝」とし、主人公も木内宗吾にしたこと。
2つめは、農民一揆の対する見方が、昔とは違っているとし、「農民一揆である以上、重点が宗吾より甚兵衛にうつるのは当然だと考え」、ある程度手を加えたこと。
そして、タカクラは、「人民のたたかいのぎせいになる決心をした人間どうしの結びつきの美しさ、それを全面的に押し出すことを目的に、できるだけもとの形式を変えないよう努力し、それを表現する「かたりもの」(じょうるり)の形式も、そのまま残しました」と、書いています(タカクラ・テル「かいせつ 『佐倉義民伝』について」1965年)。

宗吾より甚兵衛に重点を置いたあらすじになっていることは、甚兵衛が宗吾を妻子に会わせるために舟のくさりを断ち切る場面で、次のような表現があることからもわかります。

〽これまでは、お情けぶかい名主さま。いくらお情けぶかくても、名主さまは、やっぱり、名主さま。殿さまの手先となって、百姓から、血のでるような年貢を取りたてる、それが仕事の名主さま。
それはむかしの宗吾さま。
〽いまのあなたはちがいまする。百姓の味方となり、百姓一揆の味方となって、命までも捨てようとなさる、宗吾さま。
その宗吾さまのために、もしも命を惜しんだら、甚兵衛、あとあとまで、百姓たちに恨まれますわい。

その言葉に宗吾は、「甚兵衛、かたじけない」と甚兵衛にすがりつきます。
このとき名主の宗吾は下から、甚兵衛は上から抱きあいます。
ここでは、立場が逆転しています。とともに、立場に関係なく信頼し合える関係を表現しています。覚悟を決めて、一揆のために命をかける2人の姿が表現されています。

平井澄子の曲に合わせた語りと、人形遣いが演じる人形の表情、感情とが一体となり、物語の世界に引き込まれていきます。
とくにラストシーンは、胡弓の音がしみじみとしたもの悲しさを感じさせます。死を覚悟した道、そして同時に、希望をつなぐ道を暗示した、力強い音とが入り交じった音楽構成がみごとです。
多くの観客に感動をよびおこして、演奏会は幕を閉じました。

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雨宮真理ブログ「Motto ☆写真の世界を知りたい!!」2012年8月11日より

客席は中高年の方々が多かったのですが、もっと若い人たちにも車人形の世界を知ってもらえるといいのに、と思いながら、会場をあとにしました。




この記事へのコメント

雨宮真理
2012年09月03日 13:06
長文の解説、感想をありがとうございました。
トラックバックさせて頂きますね。
かこちやん
2017年07月20日 10:47

 私は名見崎たかの孫です  なぜか幼いころの祖母が赤坂の自宅で平井先生のお稽古おをしていたのを思い出し検索してみました  何年も前に平井さん~母にお誘いがあり、郵便貯金ホールでの舞台を拝見させていただきました   懐かしい思い出です

あの頃の事を母が生存中に聞いて置けば良かったと、思っています

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