仙台散策

11月23日の午後、遠刈田温泉からの帰りに東京までの新幹線を待つ空き時間を利用して、仙台の街を周遊バス「ループル仙台」でまわりました。
時間も限られていたので、土井晩翠の旧宅「晩翠草堂」と仙台城趾、宮城県美術館の3か所に立ち寄りました。

土井晩翠は「荒城の月」の作詞者として知られていますが、「荒城の月」が発表されたのは1901(明治34)年のことでした。1871(明治4)年に仙台市北鍛冶町(現在の青葉区木町通)に生まれ、東京帝国大学英文科に進学した晩翠は、島崎藤村とともに日本近代詩に大きな足跡を残したといわれ、1900年に母校の第二高等学校教授として郷里仙台に帰り、以後、仙台の地で教鞭をとるとともに著作にはげみその生涯を送りました。
「晩翠草堂」は、戦災で住居と蔵書を失った晩翠のために、教え子など市民有志が中心となり、1949(昭和24)年、旧居跡に建設されたもので、1952年に亡くなるまでの晩年を過ごしたところです。

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旧宅に入ると、畳の座敷が2部屋あり、奥の部屋にはベッドが置いてあり、そこで寝起きをしていたということです。
青葉通に面していながら、部屋から庭を眺めていても、車の騒音はほとんど聞こえない静かな空間でした。

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仙台城趾の一角にも詩碑がありました。

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仙台城趾は、大学3年のゼミ旅行で東北地方をまわったときに立ち寄って以来でしたので、42年ぶりということになります。
伊達政宗の騎馬像は見覚えがあります。颯爽と馬にまたがる政宗は戦国武将の風格をもった顔つきでした。

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天守台からは雨上がりの仙台の市街地が一望でき、遠くの山並みもくっきりと眺められました。

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宮城県美術館では、「長谷川潾二郎展」が行われていました。

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レストランで遅いランチをとったあと、「長谷川潾二郎展」に向かいました。

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長谷川潾二郎の名前はまったく知りませんでした。1904(明治37)年に北海道函館に生まれ、兄は小説「丹下作善」の作者、林不忘。1988(昭和63)年に84歳でなくなるまで、黙々と自分の絵画スタイルを貫いた異色の孤高の画家ということです。兄の林不忘の名前は知っていましたが、4月の平塚市美術館を皮切りに下関市立美術館、北海道立函館美術館、そして10月23日から12月23日までの宮城県美術館と巡回し、長谷川潾二郎の名前も少しずつ知られるようになってきているということです。

長谷川の作品の特徴は、中心が複数、いくつものにフォーカスされているところにあるそうです。

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「バラ」(1938年)

「バラ」(1938年)。ここには8本のバラが描かれていますが、主役はどの花なのか。中央の大きな花なのか、花全体なのか、透明な瓶に無造作に入れられているバラの茎なのか。
作家の目を通して描かれた対象には必ず中心が存在するのがふつうです。そこに作者の気持ちや思いが表れるものですが、長谷川潾二郎の作品には中心が複数、あちこちにあるところに特徴があるのです。(ブログ「弐代目・青い日記帳」、「長谷川潾二郎展」より)  

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「アイスクリーム」(1981年)

「アイスクリーム」(1981年)。タイトルは「アイスクリーム」ですが、本もたばこも鉛筆もめがねも、そして机もすべてに作者が価値を見出して描いているのが見てとれます。どこに中心を据えるとか、何をポイントに描くとか、この絵の意図するところは、などという考えはどこにもないのです。

最も印象に残っている作品はやはり、チラシに用いられている「猫」(1966年)。猫の絵には片方のヒゲが描かれていません。対象を目の前にしないと描けなかった長谷川潾二郎。猫のタローがこのポーズを取ってくれるタイミングを見計らいながら遅い筆を進めているうちに、ヒゲを描きあげる前に猫は死んでしまったということです。
そんな嘘のような本当の話がつきまとっているところに、長谷川潾二郎の魅力の1つがあるのかもしれません。

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