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zoom RSS 杉村楚人冠と夏目漱石

<<   作成日時 : 2016/11/02 08:08   >>

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大学のキャンパスにある木の葉も色づいていました。

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授業を終えたあと、大学から近い杉村楚人冠記念館に立ち寄りました。いつか訪ねてみたいと思いながら行く機会がなかったのですが、『朝日新聞』2016年11月1日朝刊の「天声人語」に、東京朝日新聞の記者となった夏目漱石が、勤め先の新聞社に電話をかけようとして失敗し、「小生田舎ものなり」「一寸教へて下さい」と、同僚の杉村楚人冠に電話のかけ方を尋ねた書簡が見つかり、杉村楚人冠記念館で公開されているということが書かれていたので、行くことにしたのです。

「天声人語」には、次のように書かれています。

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『朝日新聞』2016年11月1日朝刊

わが祖父母は生前、公衆電話をかけられずに四苦八苦していた。「簡単な道具なのになぜ」と不思議に思った。それがいまや自分がスマホに悪戦苦闘する側に回った▼「社の電話は何番を用ひれば用足るや」「小生(社の電話には)田舎ものなり」「一寸(ちょっと)教へて下さい」。夏目漱石は、自宅にひいた電話から勤め先の東京朝日新聞へかけようとして失敗した。大正の初め、同僚だった杉村楚人冠(そじんかん)に電話のかけ方を尋ねた書簡が見つかった。千葉県我孫子市の楚人冠記念館で公開されている▼企画展を担当する高木大祐さん(39)によると、交換手に「どこそこ局の何番に」と頼む方式の電話だった。「無暗(むやみ)につながしたりしが為め通せざりしや」。自分がむやみにつながせたために通じないのか。頭を抱える姿が浮かぶ▼当時の電話帳を開くと「夏目金之助 新聞記者」と記載がある。かけた先の新聞社の欄には、編集用、事務用、記者詰所(つめしょ)と18もの番号が並ぶ。漱石が投げ出した一因は電話帳だったらしい▼横田順彌(じゅんや)著「明治はいから文明史」によると、明治の末、電話の設置先は官公庁や企業、旅館などが多く、よほどの名士でないと家庭には置かなかった。「電話を使うとコレラに感染する」という風説が普及を妨げたという▼漱石に限らずいつの世も最新の利器は人々をとまどわせる。だれしも15歳の時までに接したテクノロジーにしか適応できないという説をどこかで聞いた。スマホを使いこなせない小生もまた、田舎ものなり。

杉村楚人冠記念館は、常磐線我孫子駅から歩いて10分ほどの住宅街の中にありました。

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記念館になっている建物は、楚人冠が我孫子に定住するときに建てた母屋を整備して利用しているということです。記念館の中は靴を脱いで上がり、サロン、和室、夫人の部屋と茶の間であった展示室、多目的室、書斎を見学できるようになっていました。

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サロン
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書斎

展示は「楚人冠と漱石−新聞と文学と−」で、楚人冠と漱石は、1907(明治40)年から漱石が亡くなる16(大正5)年まで東京朝日新聞社の同僚でした。楚人冠はロンドンに特派され、その通信で文名をはせた看板記者、漱石は帝国大学から新聞社への転身で世間を驚かせた文豪。この2人の交流の背景には、新聞と文学が接近した時代状況がありました。2人がどのような交流をしていたのか、漱石の手紙から探ろうとした展示でした。(展示目録より)

「天声人語」に紹介されていた漱石の書簡は1912(大正元)年12月24日付のものです。楚人冠は漱石より5歳年下という関係にありました。手紙で漱石は、会社に出ない理由を(漱石は社員として小説を書いていたが、必ずしも出勤する必要はなかった)、僕のようなものが怒ったってどうするわけにもいかない、と正直に打ち明けており、2人の気兼ねない関係が伝わるものとなっています。

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杉村楚人冠記念館ホームページより

竹林、椿、池などが残る庭も公開されており、私が行ったときは誰もおらずひっそりとした静かな庭園でした。

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楚人冠は数ある庭木の中でも椿を愛していたということで、椿の時期にまた来てみたいと思っています。

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