『ある業界紙編集長の備忘録』

専門学校新聞社を立ち上げた編集長の西島芳男さんが75年間の半生を綴られた『ある業界紙編集長の備忘録』(専門学校新聞社、非売品)を出版されました。

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西島さんは、1944年、北海道の富良野近郊の寒村に13人兄弟・姉妹の末っ子として生まれ、大学進学で上京、その後、チェーホフの「シベリヤの旅」に魅せられて、当時はソ連のシベリア・中央アジアを一人旅したり、帰国後は職業を転々とする時期を過ごしました。その後、無認可校から専門学校になったある専門学校の広報担当に就職、その学校のずさんな経営実態を目の当たりにし、3人の仲間と退職し、1980年に専門学校の健全な発展と高校生の進路に役立つ情報を意図して「専門学校新聞」を創刊します。創刊当初は苦難が続きましたが、中央工学校理事長であった大森厚さんとの出会いにより、専門学校関係者の協力・理解が得られようになり、順調に発展していきました。

私が専門学校新聞を知ったのは、勤務校で、専修学校制度が発足した1976年から進路指導部の専門学校担当になり、専門学校が解るようになり、自分なりに進路指導ができるようになったころでした。記憶では第7号のころだったと思いますが、この本を読むとまだ専門学校新聞が大変な時期だったことがわかります。紙面にはリクルートが出している進学情報誌の問題点を指摘する論説や記事が毎号のように掲載されていました。情報誌の問題点とは、高校に大量に送られてきてその処理に困っていたこと、その内容も誇大広告が多く、掲載内容に信頼性がなかったこと、専門学校も無認可校も区別なく掲載されていて、生徒は専門学校と誤認して無認可校に入学している実態があったことなどでした。私は、西島さんに、専門学校の進路指導をしている旨の手紙を出すとともに事務所にうかがい、知り合いになりました。また、月1回全専各連の事務局で開かれた「専門学校を考える会」にも参加させていただき、その後は親しく接していただくようになりました。
そのうちリクルートは大量送付される情報誌に対する高校側の批判を受けて、高校から生徒名簿を入手し、情報誌を宅配するようになります。一民間企業のために生徒の個人情報を提供することの問題点を指摘する記事も、当時の専門学校新聞には毎号のように掲載されていました。
こうした状況の下で、西島さんは、85年に事務所で暴漢に襲われ重傷を負う事件に遭遇します。犯人はいまもわかっていませんが、私も衝撃を受けた記憶が残っています。

1988年にリクルート事件が起き、文部省ルートに特捜部の捜索が入ると、早くから高校とリクルート関係やリクルートの情報誌の誇大広告・無認可校掲載、情報誌の宅配に伴う生徒名簿の蒐集などをめぐって、この問題を誌面に取りあげていた専門学校新聞の西島さんのもとにもマスコミ各社が取材に訪れていることや、リクルート社の幹部から懐柔工作があったことなどが語られています。
リクルート事件のときには、私も特捜部から事情聴取があり、マスコミ各社から連日のように取材を受けたので、そのころのことを思い出しながら読みました。

専修学校が制度化されて30周年を迎えた2005年には、専門学校新聞社は新宿駅西口広場で「専修学校制度30周年記念展」を開きました。このとき記念事業の一環として「私のしごと」作文コンクールも行われました。私も会場に行き、展示を見学をしました。そして数は多くなかったですが、私の学校からも作文コンクールに応募したのを覚えています。この「私のしごと」作文コンクールは現在も続いており、2011年の3.11(東日本大震災)を機に陸前高田市とのつながりができ、陸前高田市長賞が設けられています。毎年4000通近い作品が集まるコンクールになっていますが、この作文コンクールについても語られ、震災に遭った高校生の作品も紹介されています。私も退職後、審査員として関わるようになりました。

西島さんとは40年近くお付き合いをさせていただいています。この間、郷里の北海道のこと、シベリアを旅行したことなど断片的にうかがったことはありますが、このようにまとまったかたちで75年にわたる波乱の人生を歩まれてきたことを知ることができ、改めて西島さんのいきざまから学ばなければいけないと感じました。
西島さんは、胃がん、大腸がんという大病を患いながらも、今もかくしゃくとして仕事をされています。息子も専門学校新聞社にお世話になり、公私にわたってお世話になっています。この『ある業界紙編集長の備忘録』の出版を機に、今後とも健康に留意され、専門学校業界の発展のためにいつまでもご活躍されるようお祈りしています。

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