山本宣治終焉の地記念プレート除幕・献花・記念のつどい

今年は、戦前日本の軍国主義の時代に猛威を振るった治安維持法に反対し、右翼暴漢の凶刃に斃れた代議士・山本宣治(山宣)の没後90周年、生誕130周年にあたります。

東京山宣会では、山宣の終焉の地である旅館「光榮館」跡に千代田区の「まちの記憶保存プレート」を設置する運動を進めていましたが、その設置が認められたことから、3月17日、プレートの除幕・献花・記念のつどいが開かれました。私も列席してきました。

画像


山宣のご遺族、二女・井出美代さん、孫・山本勇治さん、曾孫・永島梓さんらが出席され、約130名の列席者があり、除幕式と献花が行われました。

その後、東京堂書店ホールに会場を移し、記念のつどいが開かれました。

画像


つどいのプログラムは、次の通りでした。
参列者献歌 山本宣治追悼歌    トランペット吹奏 松平 晃さん
記念プレート設置経過報告      東京山宣会会長 永島 民男さん
遺族謝辞                 京都民医連九条診療所所長 山本 勇治さん
記念講演「山本宣治と治安維持法」 小樽商科大学名誉教授 荻野 富士夫さん
お祝いのことば

画像


荻野さんの講演は、山宣と治安維持法について整理して分かりやすく説明したものでした。
荻野さんは、治安維持法が初めて適用され京都学連事件(1926年)で山宣が検束されたのをはじめ、山宣の周辺に官憲による圧迫が及びはじめ、1928年の第1回普通選挙で衆議院議員に当選してからも、全国的な共産党員の検挙が行われた3.15事件でも検束され、帝国議会で官憲による拷問などを追求したこと、1929年春の治安維持法改正緊急勅令承諾法案に唯一反対したことなどが、3月5日のテロにつながったという経緯を説明しました。そして緊急勅令で「改正」された、最高刑の死刑引き上げは今後の凶暴な弾圧にさらそうとする意図があること、目的遂行罪は拡張解釈による弾圧の打ち出の小槌になったことなどを説明しました。また、山宣の墓が、「山宣ひとり孤塁を守る、だが私は淋しくない、背後には大衆が支持してゐるから」(大山郁夫筆)の碑文をセメントで塗りつぶしてようやく建立を認められるなど当局の弾圧が激しかったことを明らかにしました。最後に、山宣の魅力にふれ、毅然たるものをうちにひそめ、信念を曲げない人であったこと、そして、山宣が、生物学者から出発して、専門外の経済や法律なども学び、社会はこうあるべきだという方向に進んでいくことに迷うことなくつかみ取っていたとし、大まかな進路をとることの大事さを山宣は教えてくれるのではないか、と講演を締めくくりました。

つどいのあと、ご遺族を交えての交流懇親会があり、私も長野山宣会や国民救援会などの方と言葉を交わすことができました。

「山本宣治終焉の地(光榮館跡)」のプレートは、地下鉄神保町駅に近い東京パークタワービルに面した区道植栽に建てられています。

画像


プレートには「軍国主義の時代、国民弾圧の治安維持法に反対した唯一の代議士。1929年(昭和4年)3月5日夜、定宿の光榮館があったこの地で右翼暴漢の凶刃により、39歳の生涯を閉じる。」と書かれています。
山宣を知らない人も、このプレートを見て、こんな人がいたのだと知る機会にもなります。
このプレートが、再び戦争と暗黒の世の中にしないための永遠のシンボルとして、京都・宇治の山宣の墓、長野・上田別所温泉の山宣記念碑とともに、永く語り継がれていくとよいと思っています。



この記事へのコメント

この記事へのトラックバック