大日方悦夫『満洲分村移民を拒否した村長』

大日方悦夫さん(元長野県立高等学校長)から『満洲分村移民を拒否した村長』(信濃毎日新聞社、2018年)を送っていただきました。ありがとうございました。

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戦前、アジア・太平洋戦争の下で、中国東北部への「満洲」移民は「国策」として進められ、全国各地から32万人余りの移民者が海を渡りました。ソ連軍の「満洲」への進攻によって多くの移民が置き去りにされ、敗戦時の移住者27万人のうち8万人は、二度と故国の土を踏むことはありませんでした。
満洲移民は、ある時期から村、あるいは地域単位で渡満する分村移民のかたちで進められました。半ば強制的なものでしたが、この「国策」を自らの良心に基づいて拒否した村長がいました。長野県下伊那郡大下条村(現・阿南町)の村長であった、佐々木忠綱です。

大日方さんは、すでに1993年に「『満洲』分村移民を拒否した村長」(『地理歴史教育』第508号)をまとられていますが、本書では、その後の資料調査をもとに、「佐々木忠綱がなぜ分村移民を拒んだのか」について、(1)なぜ分村移民を拒んだのか、(2)どのような方法で分村移民を回避したのか、(3)なぜ分村移民を拒むことが出きたのか、という3つの視点を設定し、佐々木忠綱の生い立ちから、青年期の思想形成、村長としての軌跡をていねいに跡づけています。

私は、自由大学研究を進める中で、伊那自由大学の熱心な聴講者であった佐々木忠綱さんと知り合い、1979年に自由大学研究会の例会で伊那自由大学の関係者の方々に集まっていただき座談会を開いたとき、また、1981年に自由大学運動60周年記念集会を上田市で開いたときにも、佐々木さんに来ていただき、証言をしていただきました。とくに81年の60周年記念集会では、次のように語って、参加者に大きな感銘を与えました。

長野県は満州開拓を非常に強力に進めましたが、私は絶対にいかんと、県で進めるのはいいけれど、満州開拓を村で進めるのはいかんと。ある時は壮年団が全部寄ってきて、「村長なんだ、分村すべきじゃないか、各村が全て分村しているのに、なぜ分村せんのか」と詰め寄られたことがありましたが、他の村長と満州を視察して、どうしても満州移民を出すべきではないと考えまして、分村を拒否しました。いま考えて、もしあの時に分村しておったならば、大勢の犠牲者を出し、自分も生きておられなかったのではないかと思うぐらいですが、とにかく自由大学の当時の感激というのが本日まで、間断することなく続いて生きているわけです。

この佐々木さんの証言がきっかけとなって、大槻宏樹さんは「反戦・平和」としての自由大学を問い、米山光儀さんと大日方悦夫さんは佐々木忠綱が自由大学での学びが分村移民の拒否につながったことを明らかにしました。

大日方さんの本は、「国策」にながされていく国民の意識のありよう、教育の持つ意味、「教養」とは何かを改めて問うものにもなっています。ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思っています。

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