下田散策1 宝福寺-唐人お吉をめぐって-

少しでも暖かいところに旅行したい、という妻の要望で、伊豆の下田へ1月6日から1泊で旅行してきました。

12時少し前に伊豆急下田駅に着き、最初に向かったのは寝姿山。市内から見ると、女性が仰向けに横たわっているように見えることから、寝姿山とよばれている標高200mの山。下田駅からすぐ近くにロープウェイの駅があり、数分で山頂駅に行けます。

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寝姿山山頂駅からは花を楽しみながら遊歩道を歩きました。

椿や臘梅、寒桜などの花がところどころに咲いているのが見られました。

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風もなく暖かで、天気も良く、遠く大島、豊島、新島、神津島など伊豆七島の島々が海に浮かんでいる姿も眺められました。

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街中散策は、マイマイ通りを了仙寺まで歩くことにし、途中でランチをすることにしました。

最初に立ち寄ったのが宝福寺。唐人お吉の墓があり、坂本龍馬の脱藩の罪を許してもらうために勝海舟が前土佐藩主・山内容堂と会談した場所として知られています。

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唐人お吉は本名を斉藤きちといい、舟大工市兵衛の次女として生まれ、4歳の時に下田に移り住み、14歳で芸者となりました。新内明け烏のお吉とうたわれるほどの美貌の人気芸者となりましたが、1857(安政4)年、アメリカ総領事館となっていた玉泉寺に入って、総領事タウンゼント・ハリスの世話をすることを命じられます。日本人で初めて異人に身を寄せた女として軽蔑の目で見られ、「唐人お吉」とよばれて、あらゆる侮蔑を受け、芸者や髪結いをして諸国を流れ歩き、下田に戻り、小料理屋安直楼を開いたものの、酒に溺れ、2年で廃業、乞食となったあげく、1890(明治23)年下田の川に身を投げて生涯を閉じました。
お吉の遺体を下田の人々は「汚らわしい」と蔑み、河川敷に3日も捨て置かれていたのを、宝福寺の住職が境内の一角に葬りますが、のちにこの住職もお吉を勝手に葬ったとして周囲から迫害を受け、下田を去ることになります。

お吉の存在は、1928(昭和3)年、十一谷義三郎が『中央公論』に小説「唐人お吉」を発表し、その後、映画、演劇、歌謡曲で広く知られるようになりました。 
日本近現代史研究者の大濱徹也さんは、”お吉”ブームをうながした時代背景として、山東出兵から満州事変へと中国へ侵出していく日本をめぐり、「日米関係が時と共に緊張関係をましていく時代人心の空気」があったとし、日中戦争から太平洋戦争へと日本が戦争への道をひた走る中で、その関係悪化に符節を合わせるかのように登場してきたとしています。そして次のように述べています。「”唐人お吉”なる物語にこめられた記憶は、開国を強要し、常に「理不尽」な要求を「文明」の名で強制してくるアメリカへの鬱屈たる思いを表明したものにほかなりません。こうした思いこそは、日米関係をめぐるに日本国民の潜在的記憶として埋め込まれているがために、悲劇の女性「お吉」に己が身をなぞらえて、対米感情を研ぎ澄ませ、発散させることで、日本人たる「愛国心」をまんぞくせしめたのです」と指摘し、現在、歴史を問い直す営みに求められるのは、このような「お吉に仮託された物語を撃ち、己の足元を確かめる作業をふまえ、時勢に翻弄されない己が立つべき場を確立することではないでしょうか」と説いています(大濱徹也Webマガジンまなびと学び!、「唐人お吉-物語化の背景-」https://www.nichibun-g.co.jp/magazine/history/008.html)。

唐人お吉について私がもう1つ思い浮かべるのは、タカクラ・テルが1973年に発表した「唐人おきち」です。タカクラの原作に民族楽団「ふきの会」を結成した邦楽家の平井澄子が曲をつけたこの作品は、車人形で演じられています。

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撮影・雨宮真理(http://k1103hitomigoro.blog.so-net.ne.jp/2012-04-18より)

多くの芝居では、乞食となったお吉を、みすぼらしく汚いイメージで描かれている場合が多いのですが、タカクラは、あえて汚いイメージは強調せず、明け烏のお吉とよばれたきれいなイメージを残したひとりの女性として、人間らしいお吉を描いています。
お吉を犠牲にして結ばれた日米修好通商条約は、不平等条約で、それから長く日本の社会を苦しめました。条約改正運動が広がり、1889年には外務大臣の大隈重信が爆弾を投げつけられて片足を失う負傷をし、時の黒田清隆内閣は総辞職します。そのとき、お吉が下田で乞食をしていたのは、歴史の大きな皮肉です。
それから約130年。沖縄や東京には、日本人の入れない「外国」があります。現在も大きな社会問題となっている米軍基地のことです。日米安保条約とそれにもとづく日米地位協定により、日本は不平等な状態に置かれ、日本国民特に沖縄県民は、侮蔑され苦しめられています。
タカクラの「唐人おきち」は、私たちの運命を考えさせる、現在の日本の社会に問題を提起している作品となっています。

了仙寺へ行く途中で立ち寄ったのが、イタリアンの「ポルトカーロ」。1階は作家の三島由紀夫が愛好したマドレーヌの店として知られる日新堂菓子店。

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その経営者の横山郁代さんが2階で開いているのが「ポルトカーロ」で、1964年から70年までの夏を下田で過ごしていた頃の三島由紀夫の思い出を綴った『三島由紀夫の来た夏』(扶桑社、2010年)を書かれています。ちょうど横山さんがいらして、三島が自決したときの話をきかせてくれました。

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思いがけなく三島由紀夫と関わりのあるお店に立ち寄ることができ、いい思い出になりました。

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