「『知の巨人』熊楠と新聞人楚人冠」展

「知の巨人」といわれた博物学者・南方熊楠の生誕150年を記念する展示、「『知の巨人』熊楠と新聞人楚人冠」展が我孫子市杉村楚人冠記念館で開かれているので、大学の授業が終わった後、立ち寄りました。

画像


南方熊楠と杉村楚人冠(本名・広太郎)は、ともに和歌山県に生まれ、雄(おの)小学校、旧制和歌山中学校の出身で、熊楠がアメリカに留学する前から親しくしていました。
1887(明治20年、前年に中学校退学した広太郎は上京、熊楠はアメリカに留学、それから2人の文通が始まりました。
アメリカからの熊楠の手紙などが展示されていました。

画像
熊楠の手紙に添えられた絵(杉村楚人冠記念館 我孫子市公式ウェブサイトより)

アメリカ、イギリス留学の後、生活資金の問題からやむなく帰国した熊楠は和歌山県田辺に定住します。すでに大英博物館の情報提供者として、科学誌『ネイチャー』などの投稿者として、学舎としての歩みを固めていましたが、日本では無名の存在でした。その熊楠を「隠れたる世界的の大学者」として『大阪朝日新聞』で紹介したのが、新聞記者となっていたかつての文通相手、楚人冠でした。
楚人冠「斜に観たる紀州」の新聞記事(1909年5月)のスクラップなどが展示されていました。

画像
楚人冠のスクラップブック(同前、我孫子市公式ウェブサイトより)

神社合祀政策は、日露戦争後の地方改良運動の一環として、神社を1町村1神社を標準として合祀により減らす政策で、熊野古道で知られる和歌山県でも強行されていきました。熊楠は、自身が関心をもつ民俗信仰の拠点であり、また貴重な植物の宝庫である社叢(鎮守の杜)が伐採されていくことに対して憤り、神社合祀反対運動を始めました。地元の新聞への投書や有力者へ手紙を出して訴えました。
楚人冠もその手紙を受け取り、その情報をもとに「乱暴なる神社合祀」を『東京朝日新聞』(1911年6月22日)に掲載し、広く社会に知らせました。
展示では、新聞記事の他、熊楠の書く文章があまりに長すぎ、結局は熊楠の書簡をもとに短くまとめて楚人冠が記事にするといういきさつの分かる書簡も展示されていました。

画像
楚人冠のスクラップブック(同前、我孫子市公式ウェブサイトより)

この神社合祀反対は、「熊野九十九王子」の通称で知られる熊野への道沿いに整備された神社も、その多くが合祀の対象とされ、失われていきましたが、田辺の神島の保全、引作神社の大樟(くす)の保存など、一定の成果を上げました。早くからエコロジーに着目していた博物学者・熊楠の見識と、新聞の社会活動への貢献に積極的だったジャーナリスト楚人冠の先進性の合作であったとも言え、興味深く感じました。

1929(昭和4)年、昭和天皇の和歌山行幸にあわせ、熊楠によるご進講がおこなわれます。無位無冠の人物のご進講は異例のことで、生物学者であった天皇の意向が反映したものといわれています。楚人冠もこの情報を得て熊楠に記者が取材に行ったらよろしくとの手紙を出しますが、熊楠からの返信は断りの返事で、代わりに夭折した2人の共通の旧友、葉山兄弟の妹に会った話を長々と書いたものでした。その手紙も展示されていましたが、一世一代のご進講を前にして、楚人冠に伝えたかったのは旧友の思い出だったのでした。
熊楠は、このご進講の際、天皇に粘菌標本を献上しますが、桐の箱ではなく、キャラメルの空き箱に入れて献上したことが知られています。

南方熊楠と杉村楚人冠の交流がどのようなものであったのかを知ることができた展覧会でした。

庭園には、楚人冠が愛した椿がところどころ咲いていました。また、澤の家前には水仙が見頃になっていました。

画像

画像


国立科学博物館では、3月4日まで「南方熊楠」展が開かれています。機会があれば、こちらの方にも行ってみたいと思っています。

画像



この記事へのコメント

この記事へのトラックバック