『九月、東京の路上で』

91年前の9月1日、関東大震災が起こり、東京・横浜を中心に大きな被害をもたらし、都市災害の恐ろしさをみせつけました。その大惨事の混乱のさなかに引き起こされたのが朝鮮人虐殺でした。

あれから90年後、ヘイトスピーチが飛び交う“差別デモ”が全国各地で繰り返されています。標的とされるのは在日コリアンです。
「韓国人をたたき出せ」「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」-こうした下劣な言葉を連呼しながら、デモ隊が白昼の街頭を堂々と練り歩く。

加藤直樹さんもまた、生まれ育った東京・新大久保で我が物顔でふるまう者たちに、怒りで全身を震わせていました。

そして「不逞朝鮮人」の文字を”差別デモ”のプラカードに見つけたとき、関東大震災の朝鮮人虐殺を思い出してぞっとし、レイシスト(民族差別主義者)たちの「殺せ」という叫びは、90年前に東京の路上に響いていた「殺せ」という叫びと共鳴している--。

こうして書かれたのが加藤直樹さんの『九月、東京の路上で』(ここから、2014年)でした。

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1923年9月の東京――。関東大震災のさなかに「朝鮮人虐殺」は起きました。
「朝鮮人が放火している」「井戸に毒を投げている」という流言飛語を真に受けた人々が刃物や竹ヤリで朝鮮人を襲っていきました。

この惨劇は「過去の話ではない。今に直結し、未来に続いている」と加藤さんは書いています。そうした「焦りのような思い」を抱えて、加藤さんは東京各地を訪ね歩きます。

震災当時の記録や証言を集め、鮮血に染まった90年前の路上を振り返り、そして、ヘイトスピーチが飛び交う「いま」を思います。

読み進めながら暗澹たる気持ちになるのは、この書物に収められた当時の記録が、いまへと続く憎悪の空気を感じさせるからです。

震災当時の新聞は連日のように「不逞鮮人の陰謀」を書きたて、朝鮮人への憎悪を煽っていました。偏狭なナショナリズムにそまっていた当時の世相が、「嫌韓」の気分に満ち満ちた現在の日本社会をも照らし出します。

震災当時、小学生だった子どもたちの作文も紹介されています。
「三日になると朝鮮人騒となつて皆竹やりを持たりしてある廻つてた。其をして朝鮮人を見るとすぐ殺し(す)ので大騒になった。其れで朝鮮人が殺されて川へ流れてくる様を見ると、きび(きみ)の悪いほどである」
「歩いて居ると朝鮮人が立木にゆはかれ竹槍で腹をぶつぶつさられ(刺され)のこぎりできられてしまひました」

子どもたちがあっけらかんと無造作に書くほどに、朝鮮人の殺害が珍しいものではなく、また朝鮮人への同情や虐殺への疑問がうかがえる作文がほとんどないことが衝撃的です。
それは、「殺せ。たたき出せ。追い出せ」と無邪気に叫びながら練り歩く差別デモ参加者の姿と重なります。それゆえに、在日コリアンに向けられた憎悪の叫びから、加藤さんは90年前に東京の路上で展開された虐殺の「残響」を手繰り寄せ、「あれから90年後」の路上に立ち、過去と現在は地続きなのだと強く訴えずにはいられなかったのです。

90年後の現在、嫌韓、外国人排斥が広がっています。
そして90年前の朝鮮人虐殺そのものを否定する加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(WAC、2014年)といった本も出されるまでになっています。

私は、関東大震災のさなかに起きた朝鮮人虐殺について、次のように書いたことがあります(「関東大震災後の社会情勢」金原左門編『大正デモクラシー』吉川弘文館、1994年)。

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朝鮮人の虐殺
東京市内で15社を数えた新聞社のなかで焼け残ったのは3社にすぎず、新聞の復刊は『東京日日新聞』の9月5日付の夕刊が最初で、それまでは号外や張紙で報道する状況であった。交通・通信がまったく途絶え、正確な情報が伝わらず、家族の安否を気づかい、あるいは不安にかられた人びとのあいだにさまざまな流言・うわさが流れた。なかでも「朝鮮人が暴行をはたらいている」という流言は深刻な事態を引き起こした。
9月1日午後3時ごろ、東京市内で「社会主義者及び(朝)鮮人ノ放火多シ」という流言がひろがったのをはじめ、1日夜半から2日午前にかけて、朝鮮人が井戸に投毒した、放火・強盗・暴行をはたらいた、数百人の集団で来襲したなどの流言が横浜市中をおおい、さらに東京市内各所、隣接の各県にひろがり、関東一円から全国に伝播した。そのさい、「不逞鮮人の跋扈に不安に包まれた東京井に毒を投じ各所に強盗強姦掠奪を擅(ほしいまま)にす」(『河北新報』9月4日)、「数百人の鮮人は此の機会に乗じて凶器を持ちて避難民を襲撃しつつあり」(『豊州新報』9月5日号外)など、新聞の流言報道が民衆にあたえた影響も無視できない。
朝鮮人の暴行・暴動の流言の発生については、自然発生説(松尾尊兊)と、権力者が特定の予断にもとづき流布したとみる説(姜徳相・今井清一)があるが、いずれにせよ、その急速なひろがりに行政機関や軍隊・警察が関わったことは疑いない。軍・警察は流言を適切に処理するのではなく、逆に拡大させた。内務省警保局長後藤文夫は、9月3日午前6時、「東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニ於テ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。既ニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ充分周密ナル視察ヲ加ヘ、鮮人ノ行動ニ対シテハ現密ナル取締ヲ加ヘラレタシ」との電文を呉鎮守府経由で各地方長官あてに打電し(『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』)、さらに群・警察は全国で2万3715名におよぶ朝鮮人を一方的に保護・検束し、警察署や捕虜収容所に送りこんだ。このことが民衆朝鮮人の暴行を信じこませる決定的要因となったが、このとき軍は朝鮮人に暴行をくわえ虐殺した。この背後には朝鮮を植民地にした支配者としての朝鮮人に対する蔑視観と、朝鮮民衆1919年の三・一独立運動で示した日本の植民地支配に対する抵抗への恐怖心があった。政府は、朝鮮人蜂起の流言を利用し、戒厳令をしき、力により人びとを威圧した。
いっぽう、警視庁は、9月2日夜、全国に「不逞鮮人取締」を打電し、翌3日には関係地域の郡市町村に「不逞鮮人ニ関スル注意ノ件」の通達が下されていた。神奈川県三浦郡長名で各町村あてに配られた通達には、「今回ノ災害ヲ期トシ不逞鮮人往行シ被害民ニ対シ暴行ヲナスノミナラス井水等ニ毒薬ヲ投スル事実有之候条特ニ御注意相成度 追テ本件ニ就テハ伍人組ヲ活動セシメ自衛ノ途ヲ講セシメラレ度」とあり(三浦郡三崎町『震災関係書類』〈『神奈川県史』資料編11-1〉)、流言だけでなく、通達によって、各地に自警団が組織されていった。この自警団は、1920年前後の時期からさかんとなった警察による民衆組織化の結果であったが(大日方純夫『警察の社会史』)、関東地方一円で3689つくられたといわれる。自警団は、消防祖・在郷軍人会・青年団など(半)官製団体の人びとが中心であったが、日雇・職人など都市雑業者をはじめ一般の人びとも多数参加した。彼らは、刀剣・木刀・鳶口・竹槍などで武装し、通行人を検問し、朝鮮人と疑わしいと、たとえ日本人であろうとみさかいなく襲いかかり、残忍な方法で殺害した。危うく死をまぬがれた曹仁承は、「(荒川の)橋の両側も死体でいっぱいであった。これらの死体は、全部朝鮮人の虐殺死体であった」、「堤防には、内臓のとび出た死体が魚を積み重ねたように足を揃えて摘んであった。それらの死体から流れる血のりで、歩くのも困難なほどであった」と証言している(朝鮮大学校)「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態」〈『朝鮮にかんする研究資料』9〉。
虐殺され犠牲となった朝鮮人の数について、内務省警保局は朝鮮人231名、中国人3名、日本人59名としているが、約6000名(姜徳相『関東大震災』)ないし、6600名(山田昭次「関東大震災と朝鮮人虐殺」〈旗田巍編『朝鮮の近代史と日本』〉)と推計されている。また、日本人のなかにも、朝鮮人と誤認されて死傷した者もおり、中国人で殺害された者も少なくない。大震災の渦中で、このような虐殺事件が引き起こされたのは、民衆の意識の底にある朝鮮人蔑視と社会訓練の欠如をあからさまに示したものといえる。

加藤さんの『九月、東京の路上で』をぜひ手にとって、91年前に日本人が起こしてしまった忌まわしい、そして恥ずべき自らの歴史を直視すべきだと思っています。

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