部活動と体罰

大阪市立桜宮高校2年生の男子生徒が、主将を務めるバスケットボール部の男性顧問教師から体罰を受け自殺した問題で、橋下徹大阪市長は1月8日、報道陣の取材に「実態解明を含めて僕が責任を持ってやる。こんな重大問題を教育委員に任せておけない」と表明、重大な体罰やいじめ事案が発生した際には、市長が市教委に直接指揮、命令することを可能にする条例制定の検討を指示したと明らかにしました(『朝日新聞』2013年1月9日付朝刊)。
また、橋下市長は、自殺をまねいた背景として「子どものSOSをきっちり受け止めるチャンネルが整備されていない」と指摘。一方で、「僕が(子どもに)手を上げることもある。親がそうだから学校現場でも(体罰は)ある。そうなったときに事後フォローをどうしないといけないのかだ」と話し、体罰が存在するとの前提をもとに、体罰が起きた後の生徒への対処方法が重要との認識を示しました(『毎日新聞』2013年1月9日付朝刊)。

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『朝日新聞』2013年1月9日付朝刊


橋下市長は、市教委や教師を口汚く批判していますが、これまで事実上の体罰の必要性を強調し、容認してきたことを撤回し謝罪しないのでは、市教委や教師を批判する資格はないと言えます。

橋下氏の体罰容認発言。
・2008年10月の堺市で開かれた「大阪の教育を考える府民討論会」に出席した橋下大阪府知事(当時)は、「口で言って聞かないと手を出さないとしょうがない」と発言。
・2012年2月に大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)が府議会に提出した教育基本条例案に「(教員は)教育上必要があるときは、必要最小限の有形力を行使して児童生徒に懲戒を加えることができる」という条項がある。(『朝日新聞』2012年2月6日付朝刊は「「体罰」場合によってはOK? 橋下氏ら問題提起」という見出しで、この条項は、「体罰批判を恐れるあまり、必要な指導ができなくなっているとの問題意識があるのだ」と橋下氏の意図を紹介しています。)
・2012年10月の大阪市の教育振興基本計画を議論する有識者会議で、「体罰はダメ」と断りながらも、ガイドラインの一例として、「僕は、もみあげをつまんで引き上げるくらいまではいいと思うんですけどね、そんなのしょっちゅうありましたし、それぐらいなかったらねー、ダメです。 大阪市でそれを体罰とか何とか言われたら、政治で僕が引き受けますから」と発言。
・2013年1月10日、橋下市長は、教員による体罰について、「全国大会を目指す桜宮高校の体育科では、保護者も含め、ある程度のところは教育的な指導だという暗黙の共通認識があったのではないか」と発言。「にもかかわらず教育委員会が体罰禁止とか、手を上げることは絶対にありえないという、うわべっ面のスローガンだけで事にあたっていたことが(事件の)最大の原因」と強弁。

橋下市長は、自身の体罰を容認していることと矛盾しないように、「体罰が存在するとの前提をもとに、体罰が起きた後の生徒への対処方法が重要との認識を示し」たそうです。子供のいじめは教師が把握できない隠れたところで行われますから「いじめがあったかも」と、その存在を前提にして対策を立てなくてはなりません。しかし、体罰は指導する側の教師が行うものですから、その存在を前提にすること自体が問題です。学校教育法第11条で体罰は禁じられているのですから。
また、市長が市教委に指揮命令を出せるような条例制定の検討を指示したというのは、今回の体罰自殺を利用して教育への政治介入を強化しようとするもので、容認することはできません。市長がすべきことは、事実を解明し、同じ過ちを繰り返さない学校現場を作っていくことを支援することです。

部活動、とくに運動部活動ではなぜ体罰があとを絶たないのでしょうか。

冨江英俊さんは、大学生を対象にした質問紙調査をもとに、(1)中学校・高校時代に運動部活動で「体を殴られたり蹴られたりした」「ボールなどの物を投げられた」「罰として、正座・ランニングなどをさせられた」の3つの行為のうち1つでも体罰経験のある割合は、中学校で39.1%、高校で44.2%であること、(2)運動部の種目別では、野球・バレーボールなど団体競技の球技で体罰経験率が高く、陸上・テニスなどの個人競技では低くなっていること、(3)部活動の雰囲気として、勝利至上主義・根性主義が強い、先輩・後輩関係が厳しい、指導者(顧問・監督)に誰も逆らえないなど民主的でない運動部ほど、体罰が行われている率が高いこと、を明らかにしています(「中学校・高等学校の運動部活動における体罰」『埼玉学園大学紀要』第8号、人間学部篇、2008年)。

スポーツ活動は、欧米では、古くから、地域における文化的社会的活動として、住民の自治活動=自治権の拡大と結びつきながら発展してきました。しかし、日本の場合は、主として、学校という限定された空間における教育活動として位置づけられ、発展・変容してきました。そして日本では、スポーツ活動の本来的なあり方が、国家権力の手によってゆがめられてきたという歴史を持っています。戦前においては、スポーツは、戦争のための「体力づくり」と「国民意識」の形成という点で重要な役割を果たしてきました。上意下達の鍛錬主義的な優勝劣敗思想の育成、「愛校心」と結びついた「愛国心」の助長、オリンピック参加を利用した「国威発揚」などに、スポーツが果たした役割を見ることができます。
戦後は、一時期は「国民の健康と文化的要求の実現」を目指すという学校体育やスポーツ界の理念(活動)が掲げられましたが、しだいに国際競技やオリンピックで「勝ち」、日本の名を上げるという勝敗中心主義的な理念(活動)へと逆戻りしていきました。政府・財界は「国威発揚」、国家主義的な「国民意識」の形成のために、体協(日本体育協会)を援助し、てこ入れしながらスポーツ支配を強めていきました。国際級の選手養成=スポーツの「高度化」を強化していく傾向は、直接間接に、学校教育、特に部活動に影響を与えていきました。
高度な選手養成のために高校から小学校まで対外運動競技基準が緩和され、学校における部活動は、選手養成のための場となっていきました。
このような日本のスポーツの特殊な変化の歴史は、教師や生徒たちのスポーツ意識=スポーツ観の形成と不可分に結びついていきました。また、この歴史の中に、現在もなお残存、醸成されている運動部活動における勝利至上主義(優勝劣敗思想)や鍛錬主義、少数精鋭主義的傾向=非科学的・非民主的諸傾向の根があることをみておく必要があります(進藤省次郞「体育クラブ活動の指導と教師の問題」田代三良・木下春雄・竹内常一編『講座現代の高校教育』第4巻、草土文化、1978年)。

日頃、運動部活動の指導は、スポーツの技能を上達させること、そしてそれを「競争」(試合)させることに、その力点がおかれています。また、うまくなり、強くなって、競争(試合)に勝つことを目指して行われています。ダンスや登山などを除けば、それがほとんどの部活に言える一般的な傾向だと考えられます。そして、技能レベルが上がり、対外試合に勝てるようになってくると、この傾向はいっそう強まっていきます。「技能的に上達すること」が「競争に勝つこと」に統一され、従属されている関係にあるところでは、必ずと言っていいほど、能力主義的な勝利至上主義=優勝劣敗思想が、部員やその活動の中に現れます。
このような「上達すること」「勝つこと」の自己目的化は、スポーツの技術学習の本来的意味である「人間的な欲求の人間的な享受」をとおしての人間的な発達、高まりから学習者(生徒)を遠ざけ、「勝つこと」に自己の生活と行動のすべてを犠牲にしていくという人間疎外状況を生み出していくことになります。また、「競争」の本来的な意味である「はげまし合い、きたえ合う」という人間関係は生まれず、「相手を打ち負かす」ことのみを自己目的とした弱肉強食の思想による人間的退廃に学習者(生徒)を導いていきます(小川太郎「学習における競争」『教育と陶冶の理論』明治図書、1968年)。

また、勝利至上主義的なクラブ運営が行われているところでは、どんな理不尽な言動があっても下級生は上級生に従わなくてはいけないという年功序列型の差別が行われがちです。また、技能による差別も生み出され、上手な者、強い者のみが優遇される状況を生み出します。「勝つこと」のみを自己目的とする部活動は、下手な者、弱い者は存在理由がなくなり、自己を殺して上手な者・強い者を補強するか、援助するかという自己否定を要求されるようになります。

このような勝利至上主義や非民主的な差別を生み出さないためには、新しいスポーツ観と民主的な指導体制を確立することが求められます。たとえば、その第一歩として、部活動の目標や練習計画や方法の決定に、全ての部員の意思が反映されるようにしていくことです。実際の活動を展開するときも、部員一人ひとりに、練習の自由と平等を貫くことです。また、全クラブを指導する組織として各部の部長会を組織し、生徒会の中央組織に位置づけることや、顧問会議を確立し、教科外教育の重要な柱として部活動を位置づけ、その認識の上に立って顧問教師集団の組織化を進めることが重要です。

勝利至上主義や非民主的な部活運営を行っている指導者のもとでは、概して経験主義とそれに付随する精神主義による指導が行われ、そこに体罰が常態化する要因があると考えられます。
桑田真澄さんは、監督は采配ミスをしても選手に殴られることはないように、「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰であるとし、スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為である、と語っています(『朝日新聞』2013年1月12日付朝刊)。

今回の体罰自殺という不幸な問題が現出したことを機に、部活動に内在する差別の事実と、その由来する原因と本質を明らかにして、部活動が真に民主主義的な人格形成の場として機能していくための、指導内容と方法の確立をどう図っていくのかが求められていると考えています。

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  • レイバン

    Excerpt: 部活動と体罰 三鷹の一日/ウェブリブログ Weblog: レイバン racked: 2013-07-06 00:23