都教委、日本史教科書修正

東京都教育員会は1月24日、東京都独自の日本史教科書『江戸から東京へ』の内容を一部修正しました。

修正箇所は次の3カ所です。
1.明治初期の国際問題に関する部分で、(1)尖閣諸島と竹島が日本の領土となった経緯を本文に追加したこと、(2)コラムを「グラントが植えた増上寺の松」から「領土をめぐる問題」に差し替えたこと、(3)地図「領土の画定」の表題を「明治初期の近隣諸国との外交と領土の画定」に変更するとともに、沖縄と台湾との間の国境線を台湾よりに修正したこと。
2.明治天皇の写真をキヨッソーネが描いた肖像画に差し替えたこと。
3.関東大震災の史跡のコラムにある「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」の文言を「大震災の混乱のなかで数多くの朝鮮人が虐殺されたことを悼み、1973(昭和48)年に立てられた」から「震災発生50周年に当たる1973(昭和48)年に立てられ、碑には、大震災の混乱のなかで、「朝鮮人の尊い生命が奪われました。」と記されている」に変更されたこと。

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『読売新聞』2013年1月25日付朝刊

1の明治初期の国際問題に関する部分について、2013年度版の教科書では「尖閣諸島については1895年に編入し、竹島については遅くとも17世紀半ばに領有権を確立していた」とし、尖閣諸島については2012年4月に「東京都が民間人所有の魚釣り島など三島を購入することが発表されると、全国から約15億円の寄附金が集まった」ことにも触れています。
都教委は、この加筆について、「日本固有の領土について正しい歴史的経緯を学び、現在の課題をしっかり認識する必要がある」としていますが(『読売新聞』2013年1月25日付朝刊「「尖閣・竹島」教科書加筆へ」)、石原慎太郎・前都知事が言い出した尖閣諸島の購入計画をめぐっては賛否両論があり、都議会で正式に購入を決定したものでもないことを、都独自の教科書とはいえ、前都知事の言動を正当化するような記述をする必要があるのかは疑問を禁じ得ないところです。

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『朝日新聞』2013年1月25日付朝刊

3の関東大震災のさなかに起こった朝鮮人虐殺の問題については、「虐殺」の記述がなくなりました。現在使われている2012年度版でさえ、誰が虐殺したのか、官憲当局の関与については記述がないように、不十分なものですが、それでも「数多くの朝鮮人が虐殺された」ことは触れていました。
都教委は、「虐殺」の削除について、「いろいろな説があり、殺害方法がすべて虐殺と我々には判断できない。(虐殺の)言葉から残虐なイメージも喚起する」としていますが(『朝日新聞』2013年1月25日付朝刊「関東大震災朝鮮人「虐殺」の記述消える」)、朝鮮人が虐殺されたことは事実であり、都教委が領土問題で「正しい歴史経緯を学び、現在の課題をしっかり認識させる必要がある」と考えているのであれば、朝鮮人虐殺の問題も、山田昭次さん(立教大学名誉教授)が言われるように、「残虐でも事実を直視し、反省しないと歴史から学べない。教育の場で真実をきちんと伝えるべきだ」と思います。


なお、私は、関東大震災のさなかに起きた朝鮮人虐殺について、次のように書いたことがあります(「関東大震災後の社会情勢」金原左門編『大正デモクラシー』吉川弘文館、1994年)。

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朝鮮人の虐殺
東京市内で15社を数えた新聞社のなかで焼け残ったのは3社にすぎず、新聞の復刊は『東京日日新聞』の9月5日付の夕刊が最初で、それまでは号外や張紙で報道する状況であった。交通・通信がまったく途絶え、正確な情報が伝わらず、家族の安否を気づかい、あるいは不安にかられた人びとのあいだにさまざまな流言・うわさが流れた。なかでも「朝鮮人が暴行をはたらいている」という流言は深刻な事態を引き起こした。
9月1日午後3時ごろ、東京市内で「社会主義者及び(朝)鮮人ノ放火多シ」という流言がひろがったのをはじめ、1日夜半から2日午前にかけて、朝鮮人が井戸に投毒した、放火・強盗・暴行をはたらいた、数百人の集団で来襲したなどの流言が横浜市中をおおい、さらに東京市内各所、隣接の各県にひろがり、関東一円から全国に伝播した。そのさい、「不逞鮮人の跋扈に不安に包まれた東京井に毒を投じ各所に強盗強姦掠奪を擅(ほしいまま)にす」(『河北新報』9月4日)、「数百人の鮮人は此の機会に乗じて凶器を持ちて避難民を襲撃しつつあり」(『豊州新報』9月5日号外)など、新聞の流言報道が民衆にあたえた影響も無視できない。
朝鮮人の暴行・暴動の流言の発生については、自然発生説(松尾尊兊)と、権力者が特定の予断にもとづき流布したとみる説(姜徳相・今井清一)があるが、いずれにせよ、その急速なひろがりに行政機関や軍隊・警察が関わったことは疑いない。軍・警察は流言を適切に処理するのではなく、逆に拡大させた。内務省警保局長後藤文夫は、9月3日午前6時、「東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニ於テ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。既ニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ充分周密ナル視察ヲ加ヘ、鮮人ノ行動ニ対シテハ現密ナル取締ヲ加ヘラレタシ」との電文を呉鎮守府経由で各地方長官あてに打電し(『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』)、さらに群・警察は全国で2万3715名におよぶ朝鮮人を一方的に保護・検束し、警察署や捕虜収容所に送りこんだ。このことが民衆朝鮮人の暴行を信じこませる決定的要因となったが、このとき軍は朝鮮人に暴行をくわえ虐殺した。この背後には朝鮮を植民地にした支配者としての朝鮮人に対する蔑視観と、朝鮮民衆1919年の三・一独立運動で示した日本の植民地支配に対する抵抗への恐怖心があった。政府は、朝鮮人蜂起の流言を利用し、戒厳令をしき、力により人びとを威圧した。
いっぽう、警視庁は、9月2日夜、全国に「不逞鮮人取締」を打電し、翌3日には関係地域の郡市町村に「不逞鮮人ニ関スル注意ノ件」の通達が下されていた。神奈川県三浦郡長名で各町村あてに配られた通達には、「今回ノ災害ヲ期トシ不逞鮮人往行シ被害民ニ対シ暴行ヲナスノミナラス井水等ニ毒薬ヲ投スル事実有之候条特ニ御注意相成度 追テ本件ニ就テハ伍人組ヲ活動セシメ自衛ノ途ヲ講セシメラレ度」とあり(三浦郡三崎町『震災関係書類』〈『神奈川県史』資料編11-1〉)、流言だけでなく、通達によって、各地に自警団が組織されていった。この自警団は、1920年前後の時期からさかんとなった警察による民衆組織化の結果であったが(大日方純夫『警察の社会史』)、関東地方一円で3689つくられたといわれる。自警団は、消防祖・在郷軍人会・青年団など(半)官製団体の人びとが中心であったが、日雇・職人など都市雑業者をはじめ一般の人びとも多数参加した。彼らは、刀剣・木刀・鳶口・竹槍などで武装し、通行人を検問し、朝鮮人と疑わしいと、たとえ日本人であろうとみさかいなく襲いかかり、残忍な方法で殺害した。危うく死をまぬがれた曹仁承は、「(荒川の)橋の両側も死体でいっぱいであった。これらの死体は、全部朝鮮人の虐殺死体であった」、「堤防には、内臓のとび出た死体が魚を積み重ねたように足を揃えて摘んであった。それらの死体から流れる血のりで、歩くのも困難なほどであった」と証言している(朝鮮大学校)「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態」〈『朝鮮にかんする研究資料』9〉。
虐殺され犠牲となった朝鮮人の数について、内務省警保局は朝鮮人231名、中国人3名、日本人59名としているが、約6000名(姜徳相『関東大震災』)ないし、6600名(山田昭次「関東大震災と朝鮮人虐殺」〈旗田巍編『朝鮮の近代史と日本』〉)と推計されている。また、日本人のなかにも、朝鮮人と誤認されて死傷した者もおり、中国人で殺害された者も少なくない。大震災の渦中で、このような虐殺事件が引き起こされたのは、民衆の意識の底にある朝鮮人蔑視と社会訓練の欠如をあからさまに示したものといえる。

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