生誕100年 松本竣介展 

8月4日から9月17日まで宮城県美術館で開催されていた松本竣介展。
たまたま日本キャリアデザイン学会研究大会が仙台であり、14日に鑑賞する機会をつくることができました。

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松本竣介は、1912年に東京で生まれ、少年時代を岩手で過ごし、12歳のときに病気で聴力を失ったことをきっかけの1つとして画家を志し、29年に上京、太平洋画会研究所に通い、鶴田吾郎らの指導を受け、35年に第22回二科展に初入選しました。以後、建物や人々が幾重にも重なり合う都会風景や、大地に立つ自らの姿を描いた自画像などの大作を発表する一方、36年にはデッサンとエッセイの月刊雑誌『雑記帳』を創刊するなど、文芸活動にも取り組みます。しかし、あらたな世界を構築しようとしていた矢先の1948年に肺結核のため36歳の若さで生涯を閉じました。
宮城県立美術館は今年、竣介の生誕100年にあたり、回顧展を開催することにしたということです(「生誕100年 松本竣介展」チラシより)。

初期の作品から順に展示されている作品をみていきましたが、1937年の〈郊外〉に始まる、主に緑や青と白の画面で構成された一連の郊外風景が、〈都会〉(1940年)とともに印象に残っています。

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〈郊外〉1937年
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、〈都会〉1940年

また、竣介が1941年から3年続けて二科展に出品した〈画家の像〉、〈立てる像〉、〈三人〉と、画家自身が中央に立つ作品も、戦時下という時代に立ち向かって立とうとする意志が感じられ、印象に残った作品でした。

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〈画家の像〉1941年
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〈立てる像〉1942年

松本竣介の名前を知ったのは、タカクラ・テルの著作を探しているときに、竣介が創刊した雑誌『雑記帳』にタカクラが「国語の混乱に就いて」(『雑記帳』1937年11月号)を寄稿していることからでした。

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『雑記帳』1937年11月号

竣介は、編集方針として、「野放しの文章、書きたいことを自由に、各方面の方々に書いて貰ふつもりでゐる」(1936年10月号「編輯雑記」)と書いているように、寄稿者に自由に書いてもらい、バラエティーに富んだものにしようと考え、それによって一つの分野に偏らず「綜合した雰囲気を出したい」(1937年3月号「編輯雑記」)と考えていました。そのような中で、竣介がタカクラにどのような経緯で寄稿を依頼したのかはわかっていませんが、タカクラの文章について、読者から「どうしてあゝいふ仮名使ひをするのか教へてくれ」という葉書を二、三通もらったことに関連して、竣介は、タカクラの国語改革の運動に理解を示して、次のように書いています。
「読みにくいといふのは慣れないといふだけでせう。それはローマ字綴りの日本文を読むのと同じことで、高倉氏の考へを忖度するのは失礼だと思ひますが、仮名づかひを音綴りにしてゐるのは、「い」と「ゐ」、「やう」と「よう」、「う」と「ふ」、というやうな使ひ方の差を一定にされて、仮名使ひを合理的に統一されてゐるのだと思ひます。例へば法にはホウとハウの差がある。仏教関係は呉音であるからルビは皆ホウとしなければならず、普通の法はハウとしなければならぬといふやうに、完全な仮名使ひをするには文筆を業とする人でも随分うるさいことだらうと思ひます。まして大衆は一人も完全な日本文は書けぬといふことになってくる。文章が凡ての人のものになるためにと高倉氏の国語運動があるのではないでせうか。僕達は習慣から半分は歴史的な文法に従ってゐるのですが、国語の混乱を実行しているわけです。自然の淘汰が総て合理的な新しい日本語を作るでせうが、現在文章を書くものは出来るだけ正しい文章を書き、贅(むだ)な形容や漢字を省略して、明快な文章作っていくことが任務なのではあるまいかと日頃考えてゐることです」(1937年12月号「編輯雑記」)。
ここには竣介のリベラルな一面を見ることができるように思います。

*作品写真は『「生誕100年 松本竣介展」図録』(2012年)より。

*東京では、2012年11月23日から13年1月14日まで、世田谷美術館で開催されます。

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