憲法教育

小林節慶応大教授が東京のある区のシルバー大学で「やさしい憲法の話」という講演をしたあとの受講者の感想についてふれて「牢固な戦後『憲法9条』教育」と題する文章を「一刀両断」(『大阪日日新聞』2012年6月12日付)に書いています。

小林教授は、憲法9条に触れて、「戦争を放棄」し「戦力の不保持」をうたっている9条のもとで法律と予算にもとづいて自衛隊がなぜ存在し得るのかを政府見解に沿って説明したところ、140名の受講者中2名が、「軍事力で決着をつけようという姿勢が恐ろしい」、「外交的努力を考えずに軍事力で決着をつけようとする姿勢には疑問だ」という感想を書いていることに対して、それは「かつての冷戦時代にいわゆる左翼の人々からよく言われたことと同じで、私の小学生時代に日教組に所属する教員から教わったことと同じ」で、「今でもこのような言い方をする人がいることには驚かされた。戦後の憲法9条教育の効果は今でも絶大なものがあるのだろう」と述べています。

5月23日、弁護士の肩書きで品川区のシルバー大学で講演されたときのことを書かれたもののようです。140名の受講者の大半は団塊の世代以上の年代の人たちだと考えられますが、そのうちの2名が軍事力で決着するのではなく外交的努力も必要との感想を書いたことが、どうして日教組の憲法教育の効果が「今でも絶大」だといえるのでしょうか。140名のうち半数以上の人たちが、そのような感想を書かれたのならまだ理解できますが。

団塊の世代が小学校高学年から中学校3年生の時期は、1958年~62、3年の時期です。この時期の日教組は組織率が80%とまだ高い頃になります。
しかし、この時期は文部省による日教組対策が強化され、教科書検定も強化されていった時期です。
1953年に第5次吉田茂内閣のもとで文部大臣に就任した大達茂雄は、MSA協定(日米相互防衛援助協定)による日本再軍備強化の問題を背景に、保革の対立が激化する中、山口日記事件や京都旭丘中学校事件などのいわゆる「偏向教育」が問題となると、それを受けて、日教組に対する対決姿勢を強め、54年には教員による政治活動を制限する教育二法を制定し、日教組が中心となって進めていた平和教育を徹底的に非難しています。これ以降、教員の自主規制も強まっていくことになります。
また、荒巻重人氏によれば、学習指導要領も、1955年の学習指導要領は「憲法三原則はいうにおよばず、憲法のとりあつかいや戦争への反省が後退」している一方、「核戦争の脅威についてふれている」点が指摘され、法的拘束力を持つようになった58年の学習指導要領は、61年検定の教科書を例に「人権の記述が大幅に減り、義務の強調が増えた」「平和主義の説明も単にごく説明程度になり、戦力や交戦権の否認を全く説明しないもの」「現実の憲法状況と緊張関係を持った記述もなくな」ったと分析されています(「改憲の動向と学習指導要領・検定・教科書」『みんなで考えよう日本の教科書制度』1982年)。
前田輪音氏は、東京書籍・中教出版・清水書院の中学校社会科教科書の平和的生存権に関する記述を分析した論文の中で、平和主義の規定の根拠となる憲法前文第2項後段の引用等を1950年から現在に至るまで記述しているのは中教出版、1980年代後半からが清水書院、とびとびなのが東京書籍であったとし、全体として、1950年代後半から1970年代半ばの教科書について、憲法制定に至るまでの記述箇所では後退がみられるが、太平洋戦争への過程を軍部による政治への介入や自由権的侵害の事実をおりまぜて解説されたこと、平和的生存権の規定と、理念としての他国の戦争放棄条項を有した憲法は示され続けたこと、自衛隊が、平和的生存権規定後の戦争として初めて記述された朝鮮戦争とともに記述され始めたことを指摘しています(「中学校社会科教科書における日本国憲法の「平和的生存権」概念分析」『北海道大学教育学部紀要』第77号、1998年)。

かつて文部省は、『あたらしい憲法のはなし』(1947年)の中で、「こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました」とし、その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするものためのものは、いっさいもたないということです」、「もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです」と書いていました。

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政府の見解も、憲法制定当初は、徹底した平和主義を主張していました。1946年6月の憲法草案審議の中で吉田茂首相は、「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権は否定しておりませぬが、第9条2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と答弁していました。
しかし、1950年の朝鮮戦争の勃発を機にGHQのマッカーサーの指示により警察予備隊が創設され日本の再軍備が行われると、吉田首相は、「警察予備隊は、敵国からの防衛が目的なのではなく、国内の治安維持が目的なのであるから、違憲ではない」という答弁をするようになります。そして、警察予備隊が保安隊、さらに1954年に自衛隊へと改組されると、当時の鳩山一郎首相は、「主権国家である以上、自衛権は当然保有する権利。憲法は侵略のための戦争は放棄したが、自衛のための戦争までは放棄していない」と、政府の見解を変えていきます。以後、「自衛のために必要な最小限度の実力」の保有は合憲であるという政府の見解が定着していきます。それとともに、社会科教科書に対する検定も強化され、政府の見解に沿った記述が求められていくようになります。

平和教育、憲法教育を進めることはたえず困難な状況に置かれてきました。1950年代後半から60年代にかけても、「偏向教育」という批判にさらされながら、行われてきたに過ぎません。その結果が、シルバー大学でも、軍事力ではなく外交的努力をしていくべきだという憲法の理念の実現にかなう意見が、140名の受講者の中、わずか2名しか出なかったとみるべきではないかと思われてなりません。



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