白鳥事件60周年目の真実

4月14日の午後、社会運動資料センターなどの主催による講演会「白鳥事件60周年目の真実」が明治大学であり、参加してきました。

白鳥事件とは、60年前の1952年1月に札幌市警警備課長の白鳥一雄警部が拳銃で射殺された事件です。捜査当局は、地下に潜行して武装闘争を目指していた日本共産党札幌地区委員会の組織的な犯行と断定し、同委員会の村上国治委員長ら同党関係者を一斉検挙。事件は村上氏が犯行を計画・指揮した首謀者として懲役20年の有罪判決が確定して終わりました。
ところが、この事件は、指名手配された実行グループは逮捕されず、凶器の拳銃は未発見など物的証拠も乏しく、逮捕後転向した同党党員の証言が立証の決め手とされただけに、多くの謎が残されたままでした。
日本共産党は公式には白鳥事件との関係を否定し、白鳥事件対策協議会(白対協)を組織して110万人に及ぶ最高裁再審要請署名を集めた冤罪キャンペーンの国民運動を展開しました。また、松本清張が『日本の黒い霧』(上巻、文春文庫、1974年)で独自の推理を展開し、CICの謀略・冤罪説をとり、一般国民にも冤罪説を広めることになりました。

こうした中、渡部富哉さん(社会運動資料センター)や中野徹三さん(札幌学院大学名誉教授)は、新資料の発掘をもとに、白鳥事件は日本共産党札幌地区委員会軍事委員会による組織的な犯行であり、冤罪ではなかったこと、しかし同時に、当局は事前に事件の発生を承知したうえで謀略を行い、また証拠の弾丸の捏造などもあったことを明らかにし、白鳥事件の真実と共産党の責任を問うため、この講演会を開いたものです。

講演会の講師・演題は次の通りでした。
渡部富哉さん(社会運動資料センター)「裁判資料から検証する白鳥事件」
中野徹三さん(札幌学院大学名誉教授)「白鳥事件-真の責任はどこにあるか-学友たちが体験したもの」

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渡部富哉さん

渡部さんは、松本市の司法博物館に寄贈された、白鳥事件の主任弁護人であった杉之原舜一弁護士が保存していた裁判関係資料を整理し公開した経過を話され、その過程で発見された「追平雍嘉手記(上申書)」や佐藤直道、高安知彦の公判証言は信用できるものであるとし、とくに「追平雍嘉手記」は、札幌委員会には地下組織として軍事委員会があり、その責任者が委員長の村上国治で、村上の指示で事前に白鳥警部の銃撃が練られ、拳銃の射撃訓練を実施したこと、北海道大学の学生を中心とした中核自衛隊の隊員が数グループに分かれて白鳥警部の尾行を開始し、銃撃の機会をうかがったこと、実際に銃撃をした実行犯はポンプ職人の佐藤博であることなどが詳細に述べられているということです。
唯一の物証である白鳥警部の体内に残っていた弾丸と、拳銃の射撃訓練をしたという幌見峠でその弾丸を探し出せれば、弾丸が一致するはずで、これが立証の要になるはずでした。当局は、事件から2年後に射撃訓練の際の弾丸を発見します。それは当局側の謀略によるものでした。発見された弾丸はぴかぴかに光っていました。高安さんの証言では、目標の木に向けて水平に撃ったということで、まず見つかるのは難しいだけでなく、見つかったとしても幌見峠付近は雪も多く2年も経っていれば腐食しているはず、と渡部さんは話されました。
これが第二審の争点になり、国民運動につながっていきました。当局側の謀略と証拠捏造が暴かれ、これは冤罪事件だと印象づけられることになったのです。

また、検挙された村上国治は、53年6月に面会した菱信吉特別弁護人に獄中から「とくに潜らせた人間は絶対に活動させぬよう、出来れば国外へやってもらいたい」というレポを渡し、そのレポは秘密の連絡者(レポ・矢内鷹雄)に渡りますが、この矢内は当局のスパイで、それによって当局は決定的な証拠を握ったことを明らかにしています。つまり、村上は、証拠隠滅のために実行犯グループを国外に逃がすように指示を出していたことになります。実際に事件関係者10人がその後、中国に向け密出国、のちに7人は帰国しましたが、最後まで中国に残った実行犯とされる佐藤博、宍戸均は1988年に、鶴田倫也は2012年3月に亡くなっています。
渡部さんによれば、村上が獄中から出したレポは当局の筆跡鑑定により村上本人のものと断定し、このことが一連の白鳥事件裁判の中で、1975年5月の最高裁による特別抗告棄却決定の最大の理由の1つとされたということです。しかし、このレポについては、山田清三郎『白鳥事件研究』(白石書店、1977年、のち『白鳥事件』新風舎文庫、2005年、として再版)はもとより、共産党や白対協からも一般には知らされないまま、冤罪による再審を求める国民運動が行われたのです。

次いで渡部さんは、事件直後に「日本共産党札幌委員会」名の「見よ天誅遂に下る!」という犯行声明を思わせるビラがまかれたことについて、村上国治が声明の文案をつくり、札幌市内の機関紙共同印刷所で印刷、高安知彦が党の名前を入れさせたもので、その印刷を請け負った人物は、捜査の手を逃れるために党の指示で潜行したが、8か月の逃亡後、ノイローゼ状態で出頭し、印刷の経過をすべて話したと、ビラの作成経過を説明しました。
そして、裁判資料を整理していたとき、もう1つの「天誅ビラ」があることを発見したということです。佐藤竹三郎裁判長が「天誅ビラが「下る」「降る」の2種類あるがそれは知っているか」と高安知彦に質問し、高安は「いま初めて知りました」と証言すると、裁判長はそれ以上何も聞かない、弁護人も検事も、これ以上追及しないで終わります。これを読んだとき渡部さんは、これは当局の謀略ではないかと瞬間的にひらめいたということです。普通の裁判で事件を本当に解明するつもりであれば、裁判官も検事も2種類のビラの存在を追及するはずですが、誰が、どこで印刷したのだと聞いて、それを「知らない」という証言を聞いて、尋問をやめています。裁判長はビラが2種類ある事情を事前に知っていて、それを公にするのはまずいと考え、追及を控えたのではないか、と渡部さんは推測しています。
その後渡部さんは、「下る」と「降る」の2種類の天誅ビラのうち、「降る」のビラの現物とそのビラが入っていた封筒が北海道立図書館(江別市)に保存されているのが、昨年の11月に判明し、そのコピーを入手したということです。
「下る」と「降る」のビラの文面やレイアウトは同じようにつくられていますが、大石進さん(日本評論社会長)の鑑定では、使用活字、版面の天地左右のバランス、行間インテルが違っており、同一の印刷所で印刷されたものではない、ということです。事件当時の新聞を改めて読み直すと、2種類のビラの存在は書かれていのが分かりますが、これが当局の謀略だとは誰も気づかなかった、表記ミス程度にしか思われなかった、しかし、事件当時、取り締まりの巡査からは「2種類のビラが撒かれた」という報告が上がっていた、ということです。
渡部さんは、裁判資料によると、村上国治は事件翌日、党員間の秘密連絡役(レポ)の音川(山本昭二)に「印刷所に行ってビラを受け取り、各細胞に配れ」と指示しており、音川がビラを細胞に配達していること、音川は国警本部のスパイであること、したがって、ここからは推理になるが、音川は受け取ったビラの一部を警察当局に持って行き、警察側はそれをもとに「降る」ビラをつくりばらまいた、つまり、共産党の犯行であることを確実に市民に印象づけようとした謀略だった、と結論づけています。

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中野徹三さん

中野さんは、白鳥事件の根因はコミンフォルムの「野坂理論」批判に始まり、1951年10月の第5回全国協議会(五全協)で51年綱領と武装闘争の方針が採択されたことに求め、スターリンがコミンフォルムを結成させた理由や、コミンフォルムがなぜ50年に突然日本共産党を批判したのかを説明しました。そのうえで、白鳥事件をめぐる真実は、当時日本共産党札幌地区委員会の委員長であった村上国治が企画し、中核自衛隊を中心とするメンバーに準備させ、実行した政治的テロ行為であったことを示しているとし、当時北大全学自治会中央委員会委員長であった中野さん自身の体験として、同じ北大細胞員であった大谷高一から「白鳥事件は共産党のやったことではないという日和見主義的な意見を克服して、全党の意志の革命的統一を図る必要がある」という内容の一枚の紙切れを渡され、その翌日に「天誅ビラ」が市内に撒かれたこと、ところがその翌日か翌々日、また大谷に呼び出され、「この事件は愛国者の行為であるが、共産党のやったことではないということに、合法的宣伝を統一する」という紙切れを見せられたこと、この経過からこの事件は共産党が実行したものであることを確信した、と語られました。

そして中野さんは、白鳥事件と裁判の特徴について、(1)誰かの命を奪うことを計画的に実行したものは、極左冒険主義事件の中では、他にないこと、(2)自分たちがやったといわんばかりの「天誅ビラ」が書かれた事件としてはまれにみる事件であること、(3)逮捕された人たちは大半が自白したが、ほとんどの自白は基本的に一致し、物証は弾丸のみで、1年数か月後に幌見峠で発見されたというのはきわめて怪しいが、追平手記・高安証言が描き出しているとおりであること、(4)白鳥裁判運動という、冤罪事件として支持され、国民運動になったこと、などをあげました。

最後に、中野さんは、「誰の罪か?」と題して、共産党は人々を欺いた、と批判しました。真実をしゃべった人たちは「裏切り者」という烙印を押され、村上国治に対しても、いまは共産党は放り投げてしまっている、と述べています。そして、共産党が本当に自由で人権を保障し、すべての誤りを払拭することが、国民のためであり、共産党のためであると確信している、と述べて、講演を締めくくりました。

共産党は、1955年7月の第6回全国協議会(六全協)で極左冒険主義を自己批判し、平和革命路線に転換しました。そのなかで手がけられたのが、1949年から52年にかけて起きた、三鷹事件、松川事件、菅生事件、辰野事件などのいわゆる占領下の謀略事件と位置づけられた、冤罪事件の勝利を勝ち取り、権力犯罪であることを明らかにすることでした。松川事件は全員無罪、菅生事件は権力側の自作自演の謀略、辰野事件も無罪、三鷹事件は竹内景助被告以外は無罪(2011年11月、竹内被告の遺族が東京高裁に再審を申し立て)となっています。
これに勢いづいた共産党は、白鳥事件についても冤罪であるとして、国民運動を展開しました。この国民運動に大きな役割を果たした山田清三郎の著書には、事件直後の1952年1月23日付の日本共産党札幌委員会名の、「共産党は政治団体で会ってテロ団体ではない」「わが党は絶対に事件とは関係はない」とする「声明」が掲載されています。しかし、このような声明は出されておらず、実際には1月22日付の「天誅ビラ」が撒かれていたのです。

共産党は、1972年の「党創立50周年」を機会に、党の歴史において「極左冒険主義の方針と戦術」が採用された時期があったことを認めています。この「極左冒険主義」は1951年末から52年7月にかけて集中的にあらわれ、「党と革命の事業にきわめて大きな損害をあたえました」とされています(『日本共産党の50年』日本共産党中央委員会出版局、1972年)。共産党における「中核自衛隊」の編成による「軍事方針」の実行は誤りであったと反省されたのです。しかし、その反省に白鳥事件が含まれているかどうかは明らかにされていません。
これまで何回かまとめられた経過のある日本共産党史において、たとえ「負の遺産」としてではあっても、白鳥事件が党史の1ページとして記述されることはありませんでした。白鳥事件は、共産党の末端組織が実行した警察官へのテロ行為でしたが、このような反社会的「犯罪」をおかした誤りを認め、謝罪するという率直な反省は行われなかったのです。

「50年問題」を機に共産党が不幸な分裂状態に陥り、その分裂のさなかに、たとえ一方の側が「極左冒険主義」による軍事方針をとった中で引き起こされた事件であったにせよ、その責任を引き受け、その誤りを反省するという誠実な態度が、創立90周年を迎える現在の共産党にも求められると思っています。

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