「鳩山会館」へ行く

鳩山由紀夫が総理大臣になったとき妻が、一度行ってみたいと言っていた鳩山会館に行ってきました。
土曜日の昼間でしたが、訪れていた人は私たちを入れても3、4組で、ゆっくり館内と庭園を見学することができました。

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鳩山家は、和夫、一郎、威一郎、由起夫・邦夫と4代にわたる保守系政治家を輩出している家柄です。
和夫は、美作勝山藩士の子として生まれ、開成学校(のち東京大学)を卒業後、米国に留学、帰国後、代言人(弁護士)、東京帝国大学教授、東京専門学校(のち早稲田大学)校長などを歴任、1894年に衆議院議員に当選、のち外務次官、衆議院議長に就任しています。妻の春子は、共立女子職業学校(のち共立女子大学)の創立に参画したことで知られています。
一郎は、1915年に衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動、31年に犬養毅内閣の文部大臣に就任、戦後、54年に内閣総理大臣となり、55年の保守合同で自由民主党を結成、56年、懸案であった日ソ共同宣言に調印し日ソの国交回復を成し遂げたことで知られ、また、妻の薫は、共立女子学園長を永年勤めたことで知られています。
威一郎は、東京帝国大学法学部卒業後、大蔵省に入省、主計局長、事務次官を歴任、1974年に参議院議員に当選、福田赳夫内閣のときに外務大臣を務めました。
由起夫は、東京大学工学部を卒業、専修大学助教授となった後、1986年に衆議院議員に当選、93年、政治改革をめぐり自民党を離党、新党さきがけを結成、99年民主党代表、2009年小沢一郎が代表を辞任すると、再び代表に選ばれ、総選挙で「政権交代」を訴えて自民党を破り、内閣総理大臣になります。しかし、10年、普天間基地移設問題と政治資金報告書虚偽記載問題で「国民が聞く耳を持たなくなった」として1年で首相を辞職しました。

鳩山家が文京・音羽の地に居を構えたのは1891(明治24)年でした。洋館が建てられたのは一郎の時代で、関東大震災の翌年、1924(大正13)年のことでした。設計を手がけたのは一郎の友人、岡田信一郎で、大正・昭和初期を代表する建築家だということです。
一郎は、身体が不自由であったため、戦後、「音羽御殿」といわれたこの洋館を舞台に、自由党の創設をはかったり、日ソ国交回復の下準備を行ったり、記者会見にも利用したことで知られています。

解説ビデオでは、こうした一郎の業績を伝えていますが、戦前の文部大臣時代に滝川事件が起こると、京大総長に対して滝川幸辰教授の免職を要求し、これが拒絶されると一方的に文官分限令によって休職処分にしたこと、戦後、再軍備を唱え改憲を公約にして選挙を行ったが、与党で改憲に必要な3分の2の議席に達せず失敗したこと、改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが失敗したこと、また、原子力発電時代をもたらした原子力基本法を成立させたことなどは触れられていませんでした。

一郎の没後、建物の痛みがひどくなったため、1995(平成7)年に大規模修復工事が行われ、当時の面影を忠実に再現するとともに、一郎、薫、威一郎を記念する部屋を設け、96年から「鳩山会館」として一般に公開されるようになりました。

バラの庭を前に建つイギリス風の外観、小川三知の製作によるハトをモチーフにしたステンドグラス、アダムスタイルの応接室など、洋館を見る機会が少ないだけに、ゆっくり鑑賞できたのはよかったと思っています。

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