三鷹の一日

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zoom RSS 白樺派ゆかりの手賀沼を歩く

<<   作成日時 : 2016/11/23 21:49   >>

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大正時代、我孫子の手賀沼のほとりは、ちょっとした別荘地でした。
白樺派の柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤などが滞在し、その史跡が残されています。

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我孫子市白樺文学館パンフレットより

大学の授業を終えた帰り、手賀沼周辺を歩きました。

我孫子市の生涯学習施設「アビスタ」の駐車場脇に「バーナード・リーチの碑」があります。

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バーナード・リーチは、1916(大正5)年、柳宗悦に誘われて我孫子の柳邸(三樹荘)に窯を築いて陶器の制作に打ちこみましたが、19年、窯が焼失したのを機に我孫子を離れました。20年、のちに柳と民芸運動に取り組む陶芸家・濱田庄司を伴い、イギリスに帰国、南西部の港町セント・アヴィスでリーチ・ポッタリー(製陶所)を設立しましたが、イギリスでは陶器は低く評価されたため、34年に再来日、日本民芸館設立を目指していた柳に協力しました。
この碑は、1974年、リーチの活動を顕彰するため市民によって手賀沼公園に建てられたもので、碑には東洋と西洋の融合というリーチの理想が刻まれていました。

I have seen a vision of the marriage of East and West.
Far off down the Halls of Time,I heard a childlike voice.
How long? How long?            Bernard Leach
【訳】「私は東洋と西洋の結婚を夢見続けてきた。はるか悠久の彼方から聖童の声を聞いた。  それは いつの日か いつの日か」

国道を渡り、住宅地の道に入ると、十字路となり、そこに道案内板がありました。道案内に従って我孫子市白樺文学館へ。白樺派に関連する作家などの原稿や書簡、民芸運動に関わった人たちの作品資料が展示されています。
現在は、「原田京平展−我孫子を描きし画家−」が行われていました。

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館内は思ったより狭いスペースでしたが、はじめの展示室には柳宗悦の妻・兼子が日本民芸館から持ち込んだというグランドピアノが置かれていて、ちょうどピアノの演奏が行われていました。
原田京平は、1921(大正10)年に我孫子別荘地の先駆けである島田久兵衛が建築した島久別荘に移り住み、志賀直哉が我孫子を去った23年以降、志賀邸の留守居役として28年まで志賀邸に暮らし、36年に40歳の若さで亡くなった芸術家でした。森田恒友、木村荘八、山本鼎らと交わり、富本憲吉との交流もありました。
2階の展示室での展示には、長女摩耶の染色作品のほか、「自画像」(1921年)や「我孫子風景」(1923年)などの絵画、山本鼎や富本憲吉の書簡などが展示されていました。

文学館のすぐ目の前の小高い場所に志賀直哉邸跡あります。生い茂った森の下に木造の建物が建っています。直哉の書斎を復元したもので、ここで「暗夜行路」などか書かれたことが案内板から分かります。
書斎の手前の段になっている部分には、母屋の間取りが実寸大に再現されています。
直哉は、柳のすすめで1915年に我孫子に移住し、23年に京都へ移住するまで、我孫子に住んでいました。

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志賀直哉邸跡からは元来た道を戻り、道案内のある十字路まで戻り、そこからは小高い森の見える方向の道をたどり、楚人冠公園へ。枯れ葉の落ちた階段の坂道を上り高台へ。坂道を上りきると広場があり、その一角に杉村楚人冠の句碑がありました。
3週間前に杉村楚人冠記念館を見学していたのですが、ここに来なかったので、来てみました。
陶芸家・河村蜻山(せいざん)の作陶による句碑で、「筑波見ゆ 冬晴れの 洪(おお)いなる空に」という句が刻まれていました。

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落ち葉を踏みながら坂道を下り、また元来た道を十字路へ。そして、そこからは道案内にしたがって柳宗悦邸跡(三樹荘)に向かいました。天神坂と呼ばれる坂道を登りきったところに三樹荘がありました。現在は個人宅になつているため、中に入ることは出来ませんが、門前に説明板が建てられていました。
1912(明治45)年に白樺派同人の柳宗悦の姉が、ここに別荘を建て、その3年後に新婚の柳宗悦・兼子夫妻が住むようになりました。そして15年に柳の誘いで志賀直哉が我孫子に移住、16年にはバーナード・リーチがこの三樹荘に窯を築いて作陶にはげみ、武者小路実篤も近くに転居してきます。
三樹荘という名の由来となった3本のスダジイが今もそびえています。

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その三樹荘の向かいの天神山緑地は、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎の別荘跡で、いまは何もなく、緑地として整備されています。この高台からは、説明板によれば、眼下に手賀沼を見ることができ、その先に富士山を望むことができたようですが、今は木々に隠れ、手賀沼も見ることは出来ません。
この我孫子に柳宗悦夫妻を呼んだのは叔父の嘉納でした。嘉納が我孫子にいなければ、柳が我孫子に来なかったかも知れないことを考えると、白樺派や民芸運動と我孫子の関係は、嘉納がその礎を築いたとも言えそうです。

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天神坂を下り、手賀沼公園へ。
手賀沼は遠くが少しかすんでいましたが、湖畔では小春日和のあたたかさを楽しむ市民たちが散歩をしたりひなたぼっこをしたりしていました。

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白樺派と我孫子との関わりでは、今回行けなかったのが旧武者小路実篤邸跡。機会を見て、訪ねてみたいと思っています。

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