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zoom RSS 豊国神社・方広寺

<<   作成日時 : 2014/08/21 13:08   >>

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ホテルにチェックインをしたあと、また雨が降り始めていましたが、小1時間、ホテル周辺を散策しました。

京都国立博物館の隣、正面通りに面して豊国神社がありました。豊臣秀吉を祀る神社です。
1599(慶長4)年、東山36峰の1つ、阿弥陀ヶ峰に秀吉を「豊国大明神」として祀り、その翌年、広壮な神社が創建されました。しかし、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後は、徳川幕府の命により廃祀されて荒廃。1868(明治元)年、明治天皇の命により再興、80年、方広寺大仏殿跡地に社殿が造営されました。
豪華な彫刻の施された唐門(国宝)は、南禅寺金地院から移築したもので、伏見城の遺構と伝えられています。

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豊国神社

雨の中、神社を訪れていたのは、私たち以外には1組だけでした。

豊国神社の隣には方広寺がひっそりたたずんでいました。私たちだけで、他には誰もいませんでした。

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方広寺
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方広寺鐘楼

方広寺は、1586(天正14)年、秀吉が子孫繁栄を祈って建立したもので、高さ6丈3尺(19メートル)の木製金漆塗の大仏が安置された大仏殿が95(文禄4)年に完成したものの、96(慶長元)年の大地震で大破。その後、子の秀頼が銅製大仏を再建。幾度か消失・再建を繰り返し、1973年の火災で大仏は消失しました。
方広寺の鐘楼にある銅鐘(重文)は、秀頼が大仏再建に際して鋳造されたものですが、「国家安康」「君臣豊楽」の鐘銘が江戸幕府にとって不吉な文字であるとされ、鐘銘事件(1614年)に発展、豊臣氏滅亡の因となったことで知られています。

方広寺から耳塚(鼻塚)へ。
豊国神社のすぐ近くにあり、古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ、周囲は石柵で囲まれていました。

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耳塚(鼻塚)

秀吉が朝鮮侵略(文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱、1592〜98年)をした際、加藤清正・小西行長らの武将は、「戦功の証」として朝鮮の軍民の鼻や耳を削ぎ、塩漬けや酒漬けにして京都まで届けました。戦功の証拠として削り取った鼻を提出させ、その受取証として発効されたのが「鼻請取状」ですが、第2次侵略の先鋒となった吉川広家の場合、9通の鼻請取状の鼻数は2万近く、鍋島勝茂の5通、鼻数は約5000。これは吉川・鍋島2家の1597(慶長2)年8月から10月の50日間で確認された鼻数だけですが、約2万5000という数にのぼります。秀吉の朝鮮侵略は、領土奪取のねらいをむきだしにしながら、大量殺戮・奴隷狩り・略奪が行われましたが、耳塚(鼻塚)は、殺害された人だけでなく生きながらに鼻を削がれた人々の、その鼻の行方を物語っています(藤木久志『織田・豊臣政権』日本の歴史15、小学館、1975年)。1597年に鼻塚が築造され、五山僧500人による大供養がおこなわれていますが、林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻削ぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、当初の「鼻塚」から「耳塚」という呼称が広まったといわれ、ここには約2万人分の耳と鼻が埋められています。

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『高校日本史B』実教出版

妻に鼻塚の話をすると気味悪がっていましたが、高校で日本史の授業をしていたときには、秀吉の朝鮮侵略のところでは、この鼻塚(耳塚)のこともふれていました。また、豊臣氏の滅亡のところでは方広寺鐘銘事件についても説明をしていました。上の写真は、当時使用していた日本史教科書ですが、教師であった頃のことを少し思い出しながら、ホテルに戻りました。

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